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HLHSで天使になった直輝のDIARY
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★2006/07/15 (Sat)
10/18

もうすぐ2週間がたとうとしている。最近は面会に行っても目をあけていることがない。直輝も疲れているのだろう・・・・。
状態は変化なし。薬の数はあいかわらず減っていない。
でも、おしっこがでたということは、少しはよくなってきているのだろうか?パパは仕事を休んでいる。もちろん、こんな事態だから仕方ない。
でも、会社の人はそんなことまではわかってくれないだろう・・・。リストラされないか?心配だ。
このまま、安定した状態が続いても、長期戦になることは間違いない。無理を承知で、仕事へ行くことを許してもらえるよう頼んだ
予想に反してDrからはOKの返事。状態が安定しているからか・・・?

ホテル暮らしはお金もかかる。近くの宿泊所(ワンルームマンション)に移ってきてからは、パパの元気がない・・・。
私は一人暮らしをしていたのでこういう狭くて窓も少ないところには慣れてるけど。
「ここにいると、まるで死を待つ部屋にいるみたいで息がつまるよ・・・」
そうだね・・・。
だいぶ二人とも限界に近いくらい疲れてきていた。
私は昨日の夜、怖い夢を見てうなされたし、なぜか落ち着かない・・・・。

 「またホテルにもどる?」「トラベルのSさんに頼んでみるよ。」「じゃあ、私チケットをもらいに行くついでに家に帰って冬の洋服持ってくるよ。」
 直輝が生まれて病院に入院してから一度も家に帰っていない。
あの時は夏だった。まだ残暑も厳しくて・・・・。今はもう秋になっていることすら忘れていた。
家の中は相当ひどい状態だったけど、片付けをしている時間はない。はやく病院にもどらないと。
でも、なぜか洗濯物をたたんで、少しだけそのへんを整理した。どうしてなのかはわからないけど・・・。

10/19

パパの携帯のメロディで目が覚める。朝6:00少し前だ。病院から?
 なおきっ・・・・・・・。
もう、一階のエレベーターの前で看護婦さんが待っていた。そして、とりあえず、6階の応接室で待つことに。
この間のように持ち直すことを祈りつつ・・・・・・・・。パパの胸に顔をうずめた。もう、だめなのかな?
大丈夫だよ・・・・。きっと・・・・。直輝はがんばりやなんだから・・・・。なおき・・・。がんばれ・・・・・。
パパの心臓の音が聞こえる・・・。直輝の心臓の音もきっと・・・・・。がんばって動いてるよね・・・・・・・・。

外科医が来て、「今、心臓マッサージをしています。」と・・・・・・・。次に主治医のやぎ先生が来た時は、
「・・・・。もう、だめかもしれません・・・・。」2階へ急いで降りていく。
「7:10・・・・・。ということで・・・・。本当によく頑張りましたね」
私もN君も声をあげて泣いた。

なおき、がんばったね・・・。二人で直輝のおでこをなでてあげた。ホントによくがんばったよ・・・・・。
  こんな日が、いつか来ることはわかっていた・・・・・。お腹の中にいるときから・・・・・。

ごめんね・・・。守ってあげられなくて・・・・。がんばらせてしまって、ごめんね・・・・。でもね、パパもママも
直輝と、ずっと、ずっと、いっしょにいたかったの・・・・・・・。いっしょにね・・・・・。

一度も、苦しい顔を私達に見せなかったね・・・・。心配かけないように気を使ってたんでしょ。
もう、無理しなくていいよ・・・・・。ゆっくりおやすみ。ありがと、直輝。
 がんばって、会いにきてくれてありがとう。いつまでも、直輝はパパとママのこどもだよ・・・・・・・。



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★2006/07/15 (Sat)
10/7

今日から、術後のICUの面会。朝9:30からの一回だけ。しかも、五分間。その後はずーっとひたすら
「はい、今日はお帰りください」と言われるまで6階のベンチで待っていなくてはならない。
とにかく忍耐の毎日が始まる。産後の私はもちろん、腰のあまり強くないパパもつらかった。
今日は、なんとおっきな目をあけていた。私達を安心させたくて元気なところを見せてくれたんだね。
この頃、同じ時期に手術を受けた人たちと仲良くなった。みんなの赤ちゃんの病名を聞いた限りでは、
うちが一番悪そうだった。おしっこもまだぜんぜんでないらしく、みんなとはだいぶ違うのはあきらか。
でもね、私達夫婦が一番明るくして、病棟の暗い雰囲気を変えていた。ムードメーカーだった。

10/10

手術を受けたのは生後2週間。今日は術後5日目だ。まだ胸は閉じられず、開いたまま。
でないおしっこのために透析してるみたい。感染症が心配と言われたけど、今のところかかっていない。
直輝は入り口のすぐそばにいる。だから、みんなが直輝の顔色をチェックしてるらしく
「今日は黄色っぽい顔してたね。」とか、仲良くなったお父さんから言われたことがある・・・・。(^^ゞ

直輝の執刀医はとてもすごい人らしいことを、お母さん達から聞いた。
教授回診のとき、エプロンをつけていた付き添いのお母さんを叱ったとか、面会に両親そろってないと子どもに面会させなかったとか、面会中に子どもの顔しか見ていないと、怒るとか・・・・・・。
まあ、噂だからね・・・。大学病院にはありがちなことだと、私は気にしていなかった。それがまずかった。
パパが育成医療のために会社へ書類をとりに行くから、面会を一人でしたときのことだ。
内心、怒られるのでは・・・。とビクビクしてた私は、何も言わず立っている先生につい、
「あのー。このままこの子の体力は持つんでしょうか?」余計なことを聞いてしまった。先生は逆ギレした。
「そんなこと言ったって、しょうがないでしょう!!みんな頑張ってやってるんだよ!
でもこの状態なんだから仕方ないでしょう!!これ以上どうしろというんだ。」 
 私は言葉を失った。もうそれ以上何も聞くまいと、心に誓った。先生はたぶん自分のやり方に文句をいわれたと勘違いしたみたいだった。

そうじゃなくて、ただ単に素朴な疑問をなげかけただけだったんだけど・・・・。
直輝の顔を見ながら、泣いた。どーして?頑張っているのは直輝じゃないの?悔しくてどんどん涙が・・。
部屋を出て行くとき、婦長さんが追いかけてきた。「お母さんはちゃんとわかっているわよね・・。いちにち
いちにちが大事なんだって・・・。そうよね・・・。」なぐさめてくれているのか・・・・・。
外科医に質問してはいけません・・・・。この時、やっと看護婦さんの言った意味がわかった。

でもね、朝の面会では「落ち着いています。」
夜7:30の解除の時には何時の情報なのかわからないけど、「安定していますので、待機場所へお帰りください。」
それしか言ってもらえない親の気持ちをわかってくれというのは、無理なことなのか・・・・・。主治医の先生はいつもいるわけではないし。

10/15

まだ、自分の力ではおしっこがでない。あいかわらず、胸は開いたまま。顔色はまあまあだった。
看護婦さんも何も言わない。外科医は「安定しています」それだけ。
夕方、解除になったのでホテルへ戻る。帰ったとたん携帯電話・・・・・。
「痰を取ったとき、血圧が下がりました。すぐ、病院へ戻って下さい。」あの解除はなんだったんだよ!!まだ5分もたってないじゃない!
その後、11:00過ぎまで病院にいて、帰る。

10/16

朝の面会では、変わったことはなかったのだけれど、夜の解除の前に先生からうれしい知らせが。
なんと、自分の力でおしっこがでたそうだ。えらいぞ!直輝。よくがんばったね。これはすごいことです。
と、誉められちゃった。よし!今日はお赤飯のおにぎりを買って、お祝いだね

*追記*
かなり執刀医に批判的な文ですが・・・(^_^;)
当時はインフォームドコンセントがやっと騒がれ始めた時期。
そして、大学病院という場所。
そして、あの事件の数年前。
今は病院の体質も変わってきているでしょう。
直輝の執刀医は翌年?(もう一年いたかしら?)で辞めているそう。
あの頃も、○○先生がいなくなったらどうしたらいいんだろう。的な話題で
持ちきりでした。
嫌な思いはしたけれど、執刀してもらって、よかったと思ってます。

あのカルテ改ざんの事件が起こり、みんなが好奇の目で女子医大を注目
していた頃、私自身はかなりフクザツな思いでした。
やっぱり・・・。と思った反面、
やはり気持ちのいいものではなかったです。
HPにこの日記をUPした頃は、女子医に対するメンタル的な不満を
書き連ねることで、気持ちを保っていたような気分でもありました。
でも、マスコミと一緒になって、あの病院を批判するだけの気持ちには
なれなかったのも事実。

あの時、福岡や岡山へ行く選択肢があったのなら?
私達がもっと病気について突っ込んで調べていたのなら?
HLHSの手術成功率がもっと上がっていたのなら?

どれも、今となっては・・・・・。
最初の病院でのメンタルケアがよかったせいか、
不思議とそのような考えで後悔することは少なかったと思う。
こども医療で生まれて、女子医でオペして、頑張って。
それが、すべてであり、あの時、思って行動したことが
私達にとってベストなことだったと。
そんな風に思えるまで、きっと時間がたくさん流れたということでしょうか?




★2006/07/15 (Sat)
正直なところ、こんなに直輝ががんばってくれるとは思っていなかった。今まで何度も危機を乗り越えて
ここまでやってこれた。産まれる時も、胎児仮死。救急車での転院も命がけ。手術を待っている間に、具合が悪くなるのではないか・・・。
山をいくつも越えてきた。
たぶん、左心低形成症候群の中でも悪い方の部類だろう。
もう、告知の時点で、ある程度”死”というものを覚悟してきた私たちは泣くことをやめ、ただひたすら前向きに明るく過ごそうとしていた。
はたから見れば、なんて冗談ばかり言っているバカ夫婦なのかしら?と思うような行動、言動だったと思う。
でも、頑張っている直輝の前で涙は見せたくなかった。

ある日の面会にて・・・・・。

パパ 「直輝が大きくなったらピアニストにする?ほら、運動はできないからさ。でも大曲は最後まで弾けないの・・・。
途中で倒れる可能性があるから。お客もそれがわかるから逆に人気がでたりして。」

ママ「何言ってんのよ・・・・・・・・・・(-_-メ)

直輝担当の看護婦さんMさん
「お父さんとお母さんの会話聞いてるとおもしろ~い(笑)
なおちゃんは大物だからね~~」

・・・・こんな両親。(^^ゞ直輝も宿るところ間違えたと思ってるかもね・・・。(笑)
でも、こんなパパのおかげでママはどんなに救われたか・・・・。直輝もそう思うでしょ。

10/5 カテーテルの日

検査の前の日に受けた説明では、カテーテルで具合が悪くなることもあるということ。心不全とかね・・・。
朝、8:30までに病院に来てICUにて面会。のりパパは今日と、明日の手術の為に会社を休んだ。
一度、エレベーターの前で見送ったのに、また戻ってきた。なんで?
機械の準備がまだだったとかで、直輝は2回もいったりきたりだった。大事な窒素ボンベを忘れたらしい。
やっと検査が終わってICUで面会したとき、なんと、あくびしてた・・・・・。疲れたんだね。きっと。
それと、片目をあけて私達のほうを見て何か言いたそうにしてた・・・・・。いよいよ、明日は手術。

10/6 ノーウッド手術

10時間近くの大手術をし、直輝は本当によく頑張りました。その日はオペの人がたくさんいて、直輝が一番最初に始まったのに、なかなか終わったという連絡がこなくて、すごく心配だった。
そして面会。だいぶ顔色が悪いけど、手術はとりあえず成功したって。
執刀医の後ろには30人くらい外科医?スタッフが・・・。みんなこっちを見てた。やっぱり偉いDrだからなのかな?
その後、6階にもどり、状態が安定するまでそのまま病院にいた。
解除になったのは夜中の12:00を過ぎていた。お腹は減っているみたいだけど、コンビニは嫌。
ホテルの近くの焼肉屋へ。あの時の焼肉の味は一生忘れられないと思う。
★2006/07/15 (Sat)
直輝の病棟と、私の病棟は道路をはさんでいた。だから、6階のICUにいる間の12:00と、17:00の面会は
結構大変だった。まだお腹のホチキスがとれていない状態だったし。でも、かわいい直輝のためだものね。
産科病棟の私の部屋は二人部屋。でも、最初は私一人だったから気楽だった。寂しかったけど。
なんと、一日2万円のお部屋なのよ!!高い割には掃除してなくて、スタンドがほこりだらけだった。
看護婦さんは、担当以外はみんなそっけない態度。こんなものなのかなー?

でも、母乳指導はしてもらいたかったから、ひたすら搾乳して冷凍してた。いつか直輝が元気になって飲める
日が来ると信じたかったから・・・・・。搾乳をやめることは、直輝の命を否定するようでやめられなかった。
でも、前の病院ならば私のこの気持ちをわかってもらえただろうけど、ここでは・・・・・・・・・・。
窓の外を見ると、直輝の病室の明かりが見える。いつも、カーテンを閉めずに話し掛けていた・・・・・。
ナースセンターへ搾乳機を取りに行くと、たくさんの赤ちゃん。その後ろに搾乳機・・・。取れない。
コットを動かすわけにもいかず、とぼとぼ部屋に戻った。フンだ!直輝のほうがかわいい顔してるんだから!
(赤ちゃんにやつあたり。)だいたい、なんでナースセンターに赤ちゃんが6人もいるのよ!!

9/30 命名書
直輝のICUの看護婦さんたちはすごくやさしくて、直輝はいいなー。順調で、おしっこもいっぱいでてるって。
オペの日が決まるまで、状態を保っていて欲しい。私のおっぱいも鼻からチューブで飲んだって!!
きっと元気になるよ。なんといっても丈夫なのりママの栄養だからね。
夜の面会では、のりパパが命名書を書いて持ってきてくれて、写真も撮りました。
10/2
直輝は今日も安定しています。痰をとってもらう時、みけんにしわよせたりするけどね・・・・・。
そのたびに、やぎ先生が(直輝の担当Dr。私達は勝手にそう呼んでた。)「泣かない、泣かない・・・。」と
あやして?!くれていた。おだやかな先生が担当でよかったね!直輝。
腸の動きも順調で、私の母乳もよく飲めているそうです。
ノルウッド手術の日は、10/6に決まりました。がんばれ!!直輝。この日のサチュレーション85~88

10/3
のりママは退院。Drはベビーのオペが終わるまでいてもいいよ。と言ってくれたけど、
2万円の部屋にいるくらいならば、ビジネスホテルから通った方が安い。
母が、旅行センターまで行ってくれて、クーポンで泊まれるように手配してくれた。その際、冷凍庫があるかが大きなポイントだった。搾乳した母乳を保存するため。あいにく部屋にはないが、フロントの冷凍庫で預かってもらえるみたいでよかった。少し病院から離れているけど、仕方ないね。
直輝は今日もかわりなく順調でした。もう、明日からパジャマ姿での面会も終わり。
(あの頃あの病棟では”ピンクのパジャマ姿の女”としてある意味目立っていたかも・・・・。
だってー!2万円もする部屋にいたんだもの、パジャマも取り替えられるだけ使ってやったわよ!(産科のパジャマだった。)

*追記*
病院に対する私の個人的な考えを文章にしています。
産科のナースも、優しく接してくれた方もいました。(^_^;)
前の病院に比べ、メンタルケア等が劣っていたと感じたのは
数日しか入院してなかったためと思われます・・・・。
思われます・・・。たぶん・・・・。
★2006/07/15 (Sat)
9/24 PM11:30頃

看護婦さんに起こされる。T先生から話があると。のりてるに何かあったの?
びっくりして飛び起きる。どうやら、あまり状態がよくないらしい・・・・。ドキドキしながら話を聞く。
とにかく、N君を呼んですぐ来てもらうことにした。これから、薬を入れたり、呼吸器をつけると抱っこもできなくなるからと、先生はお母さんにもっと抱っこをさせてあげたいから・・・・。と起こしてくれたらしい。
これから先の見通しについて、先生に尋ねた。この病気で助かった子はいるのですかと?
私はあきらめかけていたのかもしれない・・・。
というか、期待して、その後の悲しみが増すのが嫌だったのか(どうせ助からないのでしょう?!)という気持ちでいた。
先生はやさしく語った。「本に書いてあることはあんまり信じないで・・・。<今も生きている子はいるから。本に書かれているのは古い情報だから・・・」

生きている子はどこかにいるんだ・・・・・。そうだよね・・・・。のりてるもがんばれるんだよね・・・・・。

NICUへ入り、抱っこをする。なんだか、これが最後の抱っこになりそうで。
でも、苦しくないように
早くベッドに戻してあげなきゃ・・・・・。

長い時間抱っこはできなかった。みんなはもういいの?と言ってくれたけど。
それと、これが最後なら、おっぱいをあげたかった。先生は希望をかなえてくれた。
でもね、看護婦さんに一生懸命しぼってもらったけど、出ないのよね(^_^;)
 あの子も、吸う力も弱いし、なんだこれ?って顔してた・・・・・
結局、ほっぺたの横にベタベタの初乳をくっつけただけだったけど、すっごいうれしかった。

9/25
昨日の説明では、この病院の術後のICUのベッドが空いてない・・・・・。ということだった。
このまま、状態の悪いまま手術を待つよりも、T女子医大への転院を勧めらる。T先生は以前、そこで働いていたらしい・・・。
まさか、転院なんて考えもしなかった。私達としては、直輝が助かるのなば、
どこの病院でも行くつもりだったけど。産科の先生、看護婦さんたちはものすごく怒っていた。
それはそうだ。周産期病棟の意味がない。しかも、ここで手術を受けるつもりでここで産んだのだから。
でも、話し合いの結果、やはり転院することに決めた。
 その席でお医者さんがあやまる姿をはじめて目にして驚いた。
でも、この病院の先生達はいつも威張ってないけどね・・・。

9/27
朝からそわそわ落ち着かない・・・。今日、二人とも転院です。とっても気持ちのいい青空。いい天気。
昨日の夜も、直輝を抱かせてもらえた。ほんとは危険なんだけど・・・・。
直輝の出発前に、NICUへ面会に行く。がんばれー!!ママもあとから行くからね!
むこうではパパが待っているからね!と、声をかける。

昼頃、パパから連絡がある。「おっきなベッドで、でーんって寝てるから大丈夫、安心して。」とのこと。
よかったー。無事に着いたんだね。途中で具合いが悪くなることもなく、偉いぞ!直輝。
ママもH先生と一緒に救急車に乗って、すぐそっちへ向かうよ。(一応、帝切だし、まだ点滴がとれたばかりの状態だった。自分では元気いっぱいだと思っていたけどね。)
★2006/07/15 (Sat)
直輝は帝王切開で、AM3:12に生まれた。私は生まれる前から性別を聞いていた。
のりパパは生まれる前まで知りたくない派だったので、私だけの胸にしまってあった(結構たいへんだったのよ・・・)
生まれたと報告を受けたのりパパは「それでいったいどっちだったんですか?」と看護婦さんに。
男の子だって知った時の心情は(女の子だったら手術がかわいそうだったから少しほっとした)らしい。
その後、パパだけ病状の説明を受け、直輝の主治医のT先生からこんなことを言われた。
「手術をしますか?それとも、このまま安らかに眠らせますか?」と・・・・・・。
一応、出生前と違って気が変わる親もいるらしいからこんなことを聞かれたのでしょう。
手術を受けることに決めていることを話してからは、とっても一生懸命に直輝を助けようとしてくれた。
それが私達にも伝わった。

その頃、のりママはもうろうとする意識の中で「赤ちゃん、すごくかわいいよ」としきりに言っている実母と実父の言葉が信用できず
(ホントにそうなのかな?心臓以外どこも悪くないのかな?他に障害があったらどうしよう・・・)
パパが撮ってきてくれたビデオを見るまでは重複障害のことを心配していた。
のりパパが来てくれて「赤ちゃん大丈夫だから安心して」と
その言葉に安心していつか眠りについたみたいだった。
9/24
帝切だったため、すぐに赤ちゃんに会いにいけない。でも、早く会いに行きたかった。
自分が手術したことなど全然忘れてしまうくらい”のりてる”のことが心配だった。
重い体を起こし、上半身をベッドの上で動かしてみる。なんとかなりそう。
どうしても下のNICUへ面会に行きたいよう・・・・。
そして、午後からなんとか車椅子に乗り面会に行けることとなる。
インターホンで看護婦のNさんが「お父さんとお母さんが面会にきました~」と言っているのを聞いてなんだか恥かしいような、くすぐったい気持ちになる。
そうか、もうあのコのお母さんなんだ・・・・。
NICUの中はビデオで見ているし、不安はない。
のりてるは奥のコットで寝ていた。ちゃ~んと肌着もつけている。たくさん点滴のコードやら心電図のコードやら一杯ついていたけど、それは予測していたこと。思ったよりショックはなかった。
ただ、それよりも、頑張って生まれてきてくれて、ホントによかったな~って・・・・。
頑張ってえらかったよ!という思いで胸がいっぱいになって・・・。
涙がでてきてしまった。

いよいよ抱っこ・・・。わ~ドキドキ。看護婦さんが寝ているのりてるを抱き上げたとたん。
「おぎゃ~!!」
・・・・・。でかいよ。声。心臓に負担がかかるからもっと小さい声で泣きなさいよ。

私が抱っこしたら、お腹の中と同じで安心したのか、すやすやと寝てしまった。
うれしかった。。。。、かわいいね・・・。のりてる・・・。
このまま、時間が止まればいいと思った・・・・・。


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★ ILLUSTRATION BY nyao